70f89e50.jpgおはようございます。
優しげな雨音に加え、鳥のさえずりが心地良い朝を醸し出してくれます。
お変わりございませんでしょうか?

さて、今日は、ご当地熊本城を築いた「加藤清正公」が生まれた日でもあります。
昨今、「昭君(しょうくん)の間」が話題になっていますよねっ。
「昭君の間」は実は「将軍の間」の隠語であるという説もあります。
熊本城を造った加藤清正は豊臣秀吉子飼いの武将で、その遺児である秀頼に万が一のときは、清正にはこの熊本城に秀頼を迎え入れ、西国武将を率いて徳川に背く覚悟があり、そのための部屋とも言われています。

フムフム・・・。
ということで、今日は、加藤清正公の生涯をど〜ぞ!
(1562〜1611)戦国時代の武将

尾張(愛知県)の土豪、正左衛門清忠の子として、尾張国愛知郡中村に生まれまし
た。幼名は虎之助といい、幼い頃に父を亡くしましたが、母が豊臣秀吉の生母の伯
母にあたることから、長浜城の羽柴(豊臣)秀吉子飼いの武将となります。

元服して清正となり、秀吉に従って戦功をたて、1583年の賤ヶ岳の戦いには、
一番槍の功名をあらわしました。1588年には肥後(熊本県)の国20万石を領
し、熊本の城主となります。

1592年朝鮮の役が起こると、小西行長とならんで先頭にたち、1597年の朝
鮮再征には蔚山(うるさん)城にこもって武名を大いにあげました。

豊臣秀吉の死後、その子の秀頼の保護者となりましたが、石田三成らの文治派とは
不和になったため、関ヶ原では家康の東軍に属し、九州の西軍小西行長の宇土城、
立花宗茂の柳河城を攻略。その功により行長の旧領及び豊後(大分県)鶴崎地方を
加封され、54万石を領する大名になりました。

秀吉の旧恩によりその子秀頼の保護に尽力し、19歳の秀頼が二条城で徳川家康と
会見した時は、死を覚悟して秀頼の後見人を果たし、無事に家康との会見を終え、
間もなく熊本城において亡くなりました。
清正の死は、豊臣の滅亡をいっそう早めたと言われています。
                    (今日生まれの偉人伝より)

今日は清正公の想いを胸に一日過ごしてみるのもいいかもしれませんねっ。